永ちゃん第1弾
2014年2月10日(月)【天馬天吉の今日の名言】
お早うさん!
今日も1日元気に明るく、絶好調!
さあ!今日から2週間、永ちゃん特集
永ちゃんファンもそうでない人も
永ちゃんはええ~ですよ。
壮絶な人生の中から生まれた
矢沢永吉の見事な成り上がり人生
からあなたも何かを学んでください。
ボ~っと見てたら何も生まれませんよ。
天吉コメントは基本ありません。
喋りたい時だけ気まぐれに
しゃべります。
永ちゃん第1弾
「信じろよ、自分を」
矢沢永吉が語る仕事-1
悔しいのが原点だったね
なぜうちだけが違うのか。惨めな思いだった
僕が3歳の時に母は家を出てしまったし、
小学校2年で父が亡くなった。
だから僕はあちこちの親類に預けられ、
そして祖母に引き取られて育ててもらった。
貧しかったですね。
生活保護を受けていたし、学校の給食費も、教科書代もすべて免除される。
そういう特典が恥ずかしくて、悔しくて、何で僕だけがそうなのか、
こんな屈辱的なことはないと思っていた。
自分が親になったら、息子の給食費や教科書代は絶対払ってやると誓っていましたよ。
道具が買えないからスポーツなども参加できなかったし、いつもおなかが減っているし。
つまらない、つまらないと言うのが口癖だったけれど、
それを聞くとおばあちゃんは「面白いところに行け」と言うだけ。
でも涙ぐんでいることもあった。
それでも僕がぐれなかったのは、音楽に出会ったからです。
ベンチャーズがすごい人気で、エレキギターの音にまず夢中になった。
もちろん買えないから、友達のを触らせてもらうだけ。
ビートルズを知ったのもその頃で、自分で作曲のようなことを始めたんです。
楽曲の本を買って、発声練習なんかも一人で始めてプロになる気持ちが固まっていった。
人がなんと言おうと自分の夢は必ず叶(かな)うと思っていたのは、不思議だね。
それだけ今の境遇から這(は)い上がりたいと思っていたし、
とことん音楽に夢中になる自分を信じられたんだと思う。
曲をずいぶん書きため、後にヒットする「アイ・ラブ・ユー、OK」も18歳の時にはできていた。
音楽でスターになる、その思いの強さだけで広島を出てきたけれど、
いい曲を作って、何でもやってやるという覚悟だけは大したものだった。